青野文昭展「転生 -それぞれの地表・流出・移植- 」

2012.12.4~12.9 スペースA、B

もののみる夢

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スペースA「転生―それぞれの地表・流出・移植」2012(撮影・小岩勉)

とりとめもない記憶が突出し、思いもよらない組み合わせが現れる。夢にはよくあることだ。同様に、汚れなど些末な痕跡が跋扈しはじめ、場違いな日用品が結集する。青野に拾われたものたちもじつは夢を見ている。彼の思い描く夢が託されているわけではない。かえって、ものの方こそが人の神経系をとおして夢みているのだ。

夢にとって記憶の古さや遠さは関係ない。すべて等しく素材たりうる。形跡を留めるもとの規格は言うに及ばず、経年の汚れや歪みまで一緒くたに動員される。あげく、あまり縁のない他のかけらまで紛れこむ。模様や染みが拙い絵筆に置き換えられ反復し、かけら同士がちぐはぐにも拘らず、同じ角だからと圧縮される。そのうえ、夢作業は細部ごとに進行し、辻褄を頓着しない。荒唐無稽になるのは宿命だ。

ところが、どんなに歪さが増しても作品は一向に破裂しない。むしろ、概ねきちんと矩形に収まる。というのも、そもそもモチーフに選ばれるかけらが矩形の面影を残すものばかりだからだ。欠落を取り繕うことが作品の動因である限り、夢作業が矩形を無視することは叶わない。それは夢を統制する理念として作用する。細部がいくら意味不明に暴走しようと、常に既に補填という意味が担保されることになる。存外これは根が深い。なにも予定調和を招きかねないからというだけではない。理念としての矩形とは、とりわけ大量消費材にとり、その合理性ゆえ資本主義の生産過程に規定されている。端的に生産しやすいのだ。この安易さが、生産ラインを決定し、労働力に枠をはめる。だが言うまでもなく、夢の生産が資本主義に従わねばならない謂れはない。

矩形への抵抗を今展に見てみよう。ふたつ指摘しうる。

展示そのものは二部屋に分かれていた。一方が一点ずつ独立する配置だったのに対し、他方は同じモチーフの作品が群れをなしていた。なお、素材はすべて被災地で採取されたという。

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スペースB「なおす・代用・合体・連置「震災後石巻で収拾したトタンの復元」2012(撮影・小岩勉)

まず前者では、従来どおり雑多なモチーフを見ることができた。カセットテープや伝票、それに机など。床から壁までさまざまに展示されていた。なかでもあえて一点に注目したい。ひしゃげたトタンを仲立ちにふたつの箪笥を繋ぎとめる作品だ。箪笥が傾ぎ、今しも弾みでずれてしまったかのよう。あたかも地震の再演だ。さりとてそれも、トタンの歪みから引き継がれ、躯体の傾斜に置換した結果にほかならない。つまり、夢作業の遂行が箪笥を倒しかつ引き留めてもいる。反復強迫さながらに、悪夢を繰り返して徹底操作を試すのだ。地震が悪夢を強いるのではない。むしろ夢こそが地震を起こす大地に代わる。夢作業を遂行するうち、その連鎖じたいが足場となり作品の編成を触発する。いまや夢作業は欠落を埋める手段ではなく、自己生成の条件をなす。このとき、モチーフの矩形はほとんど作品に寄与することなく、付随物に格下げされる。

後者の展示では、矩形が頻用されるあまり、それが織りなす平面にむしろ埋没していた。低めのテーブルが多数、会場中央へ寄せられる。天板はどれも角を欠き、床材や道路のアスファルトと圧縮される。四つ脚をてこに地表が一斉に引き上げられるのだ。脚の長さが不揃いのため、隆起や陥没は避けられない。浮遊する大地の起伏は、津波との置換をも担い、テーブルは再び波間に漂流する瓦礫と化す。天板どうしが連鎖して、茶の間や大地、海原などいくつも夢を発生させる。もとより寄る辺を奪われた瓦礫だったのが、さらに複数の夢へ漂い始める。いわば、居場所のないこの現実に留保を挟み、夢を渡り歩くその過程が住処になる。単体のものばかりか、ものたちの群れもまた夢を見る。ものはその身を群れに供し、夢を編み上げるかけらのひとつに身をやつす。天板の矩形は、かけらでこそあれ、全体を統べる理念には到底及ばない。

一方は、矩形に頼らず夢作業の連鎖をそのまま足場とし、他方は、矩形の平面を踏み台に夢みる水準を桁上げする。そうしてともに矩形の理念を骨抜きにしてしまう。ただし、夢を奪還したところで好き勝手は許されない。それは独自に欲望を追求し、夢みる当人さえ翻弄する。かといって絶縁も叶わない。まずは逆らわず、その挙動を伺うに如くはない。見落としかねない痕跡に耳をそばだて、欲望の兆しに手をさしのべる。いっしょに夢作業を紡ぐのだ。その連鎖をとおして、ものは途方もない夢を見るだろう。夢みるものの欲望に譲歩しないこと。これが青野の倫理であり、制作における自由を裏づけている。

ところで、作品のタイトルや青野の発言から察するに、被災の衝撃は少なからず尾を引いているようだ。だがそれにも拘らず、従来との違いを作品の組成から見てとることは難しい。上述した前者の傾向、すなわち夢作業の徹底も決してこれが初めてではない。ただ、地震が構造にまで深く達している点において今作は際立っていた。他方、後者に類する作品(インスタレーション?)はおそらく初めてなのではないだろうか。震災が同時かつ広範に瓦礫を大量発生させたためなのか、ものどうしが織りなすその場じたいが問われている。どうやら、単体を越えてその環境なり背景にまで射程が延びつつあるようだ。今後の展開を楽しみにしたい。

高熊洋平

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