「沼池を巡って」を巡る ― 若松恵子展によせて

「透明」とは不思議な現象だ。物理的な透明性と、心理的な透明性の認識とは必ずしも一致しない。透明な素材を使うことでできる文字通りの透明は、その極限では透明であるがゆえに誰にも認識できないものになる。が、それは、今、現実のぼくが媒質に満ち満ちている空間に包まれてあり、飛び満ちる情報に浸されていることでもある。一瞬、情報が不透明になるとき、それは認識可能なものになるのかもしれない。

絵画とは半透明でしかありえない。5月22日の夕刻、今回の個展で発表予定の作品2点を見せていただいた。若松の絵画は、油性と水性のメディウム=媒材=媒質を重ねることで、透明感のある奥深い空間のなかに形態や色素を宙づりにするものだという。一般的な絵画が持つ(べき)現象的な半透明性に比べても、文字通りの半透明性が際だっている。今回の作品は、これまでにもまして、水と油の反発のある重なりや色相自体の補色関係の重なりなどによって、媒質の勝っている層の間に密かな筆あとの形象や色素が挟み込まれてできる暗い真珠母色な輝きがより透明さを制限しているかのようだ。その暗いかげり=輝きの広がりは半透明の相にあって、不透明からのがれでるかのように、気配を醸し出している。

沼も濁りがあるように、巡る沼池も、ちょうど、22日の夕刻がそうだったように水分を多く含んだ重たい空気に包まれている。そこでは、距離感を失ったクリアな空間が現れているのではなく、気配に満ちた、むしろ隔たりがつかみ取れるほどの空間がイメージされて在る。この気配の空間へ、人は正面から対峙するのだろうか。

沼池を巡りつつあるとき、その視角は俯角をとっている。沼の周りの土地もまた、確定的な表面を失っているかもしれないからだ。その俯角のイメージは、仰角をとりながら対峙する平面に貼付られる筆あとの形象の痕跡とは隔たってある。今回の作品の、若松の抱くイメージではなく、自立した作品としての形式は、それは、一番不透明な要素でもあるのだが、そもそもが物に即した基底材でもあるので、半透明な気配の空間とは隔たる。気分や気配やふんいきは素材や技法に裏切られてもいる。

若松の作品は、近代の表現のプログラムから離れるあとわずかな手前に止まり続ける。形式が、素材が、技法が、抱かれるイメージに閉じることなく、むしろ、物理的諸条件こそがイメージを創出する。半透明な深度のなかで俯角の視線が巡るとき、その視線は何にとまるべきなのだろうか。曖昧さの持つ知覚の遅延にこそ、イメージの生成性は担保される。

2012年5月27日
大嶋貴明(美術家)

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